内藤舞亜ちゃんは僕の何なのかというお話

ハピメアが好きです。

 

 

パープルソフトウェアのゲームが好き?

違わなくはないが。

克先生の絵が好き?

違わなくはないが。

森崎先生のシナリオが好き?

違わなくはないが。

 

「森崎先生が企画段階から作り、克先生が絵を当てたハピメア」が好きなのです。

 

「夢」と「童話」という使い古されたネタながら、他に類を見ないあの耽美な世界観!いや、forestなんかで見たことあるかもしれないけど。

透はFDで悪夢と決別しましたが、僕は未だに舞亜の夢を見ます。人気投票で舞亜が1位になったことが、いかに「お兄ちゃん」たちを夢に捉えて離さないかの証左でしょう。彼女はあまりにも…そう、あまりにも魅力的すぎた。

 

妹として?

もちろん。彼女ほど僕のことを想ってくれた人はいない。

パートナーとして?

もちろん。いつまでも甘えた僕を導いてくれるのは、彼女を置いて他にいません。

女性として?

いいえ。愛らしく悪戯な瞳、他のヒロインに嫉妬さえしてみせる慎ましく、それでいて美しい肉体、いかに彼女がそれを持とうとも、妹に欲情する人間がありましょうか?透くんはしてましたが。

 

しかしどれほど我々が望んでも、舞亜は現実には現れない。それが我々のためにならないと彼女が信じているからです。決して我々の妄想がすぎるからとか、彼女が所詮キャラクターに過ぎないとか、そういうことではない。彼女は「お兄ちゃん」のためにならないことはしない。そういう存在です。

そして彼女は我々の、いや僕の心に、心の中にのみ存在し得る。それが僕のためになると信じてくれるから。

 

気持ち悪くて結構、少なくとも僕が、僕自身が、心に舞亜がいることで救われた以上、僕には舞亜が必要なのです。なぜなら、舞亜は僕の妹なのですから。

 

 

おわりだよ〜

現代におけるポピュリズム

 この記事は、古文の問題で前書きを読んでから本文に取り掛かるかのごとく、1つ前のエントリを確認してから読んで頂きたい。

 

 民主主義の「失態」とは、政治資格を持たない人々を政治に呼び込み、民主主義を衆愚政治に堕とさしめる点であったことは先のエントリで述べた通りだ。これを語るにはまず、ポピュリズムということについてまとめる必要があるだろう。

ポピュリズムとは元来、特定の政治運動に与えられた、いわば記述的概念であったはずだ。ラテン語で「民衆」を意味する「populus」を語源とすることからもわかるように、エリート主義と対をなすように使用される。それが今日では、強い価値判断を帯びた規範的概念として用いられることが多い。

重ねての引用になるが、稲葉振一郎氏によればこれは、 "リベラル・デモクラシーにおけるある種の「失敗」現象" と位置づけられる。リベラル・デモクラシーが、人々の資産格差を真剣に是正しないままに行われるならば、無産者の政治参加が形式的なものになりエリート主導を内実とする政治になるという「失敗」か、あるいは、政治的分別のない多数者による政治混乱が起きる衆愚政治になるという「失敗」が考えられる。ポピュリズムはこのうち後者にあたるとして批判を受ける。

こうした衆愚政治は通常、それをリードし大衆を利用しようとする悪質なエリートを伴うものとされることが多く、今日ではそうした政治手法を指す言葉として使われることも多い。Googleの検索窓に「米国 ポピュリズム」と打ち込めば、「ドナルド・トランプポピュリズム手法が米国をダメにする」なんて記事が大量に出てくることだろう。「アベ政治衆愚政治」なんて批判もネットにはそこそこ見られるのではなかろうか。「愚かな衆愚を正義たるリベラルへ導く我々エリート」という思想が根底にある以上これは避けられないし、なんなら内ゲバで自滅していただいた方がありがたいが、これはこれで対抗勢力としての存在価値が必要なのである。重要なのは「対抗勢力」がそこに存在することであり、民主合議制という体面を保つ上で必要不可欠だからだ。

 

 ポピュリズムに話を戻そう。二十世紀末ごろまで、先進諸国にとってのポピュリズムとは、歴史的過去あるいは途上国の問題として、いわば他人事であった。ポピュリズムの権化たるファシズムの台頭たる第二次大戦を経験したにも関わらずである。無論ファシズム台頭の契機となった政党政治、その限界への懸念はあったものの、政党を補完するチャンネルとして、労働組合であったり経済団体であったり、あるいは市民運動団体などが「圧力団体」として、民意を届ける役目を果たしていた。高度成長期のころの話である。そして1980年代まではこれがどうにか機能し、極端な党派対立を避けた脱イデオロギー的な福祉国家が誕生した、と思われてきたし、実際論じられてきた。

 しかし組織には肥大化がつきものであり、肥大化には官僚化を伴い、官僚化には団体エリートによる組織の私物化が必然である。すると下からの意見が十分に反映されなくなる。いや、実態に関わらず、そうした不満が必ず出てくる。これを「既得権益」と称して。

 そうした不満を、新自由主義を持ち込んでうまく組み上げたのが、英国のサッチャー、国内では中曽根政権や、近年の小泉政権である。強力な政治的リーダーシップを持って登場した彼らは、新自由主義をまとった小さな政府志向であったと言えることは間違いないであろう。

 しかしこれも限界が訪れる。二十一世紀に入ると、人々はグローバル化の荒波に疲れ始め、新自由主義にたいする疲弊と懐疑を持ちそれに辟易し始めた。政党も圧力団体ももはや我々を救ってはくれない。あれほど希求した小さな政府は我々の生活レベルを低下させた。今となってはむしろ、ナショナリズムの名の元に移民を制限し保護主義政策を実現できる、大きな政府を求めるようになった。

 以前のエントリで「興味深い」と称したのはこれである。つまり上に述べた要因を持って、戦後福祉国家を支えた利益団体が復権、とはならなかったことだ。かつての「グローバル・エリート」を「既得権益」と指弾するポピュリズムの装いをとった"跳ね返り"が起きたことは、ポピュリズムそれ自体が体系的なイデオロギー運動ではないことを示している。

 

 市民生活の領域、つまり民間における政治を考えると、労働組合のような中間組織の弱体化、労働運動の存在感の低下、そして「コーポレート・ガバナンス」という概念が流行したことの対比がある。先進国において1960~70年代は、労働組合を介した企業と労働者の関係が重要視された時代であった。しかし80年代に入ると、労働者の多くは中間組織を介して物申すのではなく、手っ取り早く転職という手段を取るようになった。これは一層の労働組合の弱体化を招いたのである。

 これは同時に労働者たちの疎外を意味した。企業も政治的意思決定の場であり、労働者がその立場を望まなくなった以上、お飾りであってもそこに座る人形が必要である。そして次に現れたのが株主や銀行、つまり債権者たちであり、およそ人形とは程遠い主体であった。株式会社は決して民主的に意思決定されるわけではないが、制度によって枠づけられる、ある種の共和制を敷くことが求められる。これはかつて労働組合を媒介として守られてきた人々が、何一つ不満解消のチャネルを持てない状況をもたらした。これが労働者たちの疎外ということである。

 下流やマイノリティであれば、「人権」という観点から、権利を国家から付与され、ある意味での特権階級として表層化する。気づいてみれば、何一つ持てないまま外に放り出されたのは中間階級であったというわけだ。そしてこれらのソーシャルな関係性を喪失した人々がポピュリズムを求めたと言える。

 

 いずれにせよ「リベラルな共和主義」の実現のためには熟議された民主主義が必要であることは間違いない。模索段階ではあるが、新たな中間媒体の再建が待たれるであろう。

 

自由主義、民主主義と共和主義

 まず初めに、「共和主義」とは何かということを整理しよう。共和主義とは、稲葉振一郎氏によれば "財産と教養を備えるがゆえに、他者からの強制や瞞着から自由な市民たちの合議による政治" である。これは民主主義と重なるが完全にイコールではなく、むしろある種の貴族制と両立さえし得る。

 ついでリベラルについて。自由主義は政治思想とは異なり、市民社会の統治の理論とも言うべき政策思想である。資本主義的市場経済という社会的インフラストラクチャの下で、先にあげた「財産と教養」の如何に関わらず、法の下ですべての人々を平等に扱うという方針を表す。

 理論上、リベラルな統治は必ずしも民主主義によって担われる必要はない。人々の自由は市民社会における私的活動のみに限られ、統治への参加は制限される、という可能性もリベラリズムは包摂する。

 しかし、「リベラル・デモクラシー」となれば話は異なる。これは民主的にリベラルな統治を行おうというもので、市民社会における私的活動についてはもちろんのこと、富者から無産者に至るまで、公共的意思決定への参加についても平等に扱うという構想である。これに対し「リベラルな共和主義」は、「リベラル・デモクラシー」をより充実したものとするために、できる限り万人を「財産と教養ある市民」に近づけ、無産者をなくしていこうとする。無産者の社会的立場が弱いのは明らかであるし、そのままでは政治的主体として富者と、いや有産者とさえも対等になり得ないことも明らかであるからだ。

 これは古典的社会主義を意味するわけではないことはお分かりだろう。共和主義において、私有財産制は私的・公的両面における自由の基盤として否定され得ないし、その財産による取引の場としての公平な市場も必須である。共和主義にとって必要なのは全面的に平等な社会ではなく、最低限の「財産と教養」を保障することまでなのである。

 共和主義はあくまで「自由人による集団的自治としての政治」を諦めない立場である。これは先に述べたとおりであるが、その古典的な姿は「無教養な無産者」を公的意思決定の場から排除する貴族制の形を取る。リベラル・デモクラシーの立場から言えば、この排他性は充分に唾棄すべきものとして否定されるだろう。しかし共和主義者からすれば、単なる形式的な平等を保障する「だけ」のリベラル・デモクラシーは、政治参加の資格を持たない人々にさえ意思決定に関わらせ、民主主義を衆愚政治に堕とさしめるものと批判するだろう。

 

そして近年における民主主義政治の制度疲労、悪い意味での「跳ね返り」であるのが、かつての新自由主義の旗振り役、つまりグローバルエリートたちを「既得権益」として批判するポピュリズムであることは興味深い。これについてはいずれエントリとして書こうと思う。

カクヨムの秀作名作(上から目線)

好きなやつです。異世界おれつえーみたいなのはないです。あんまりないです(多分)。おそらく追加されることもないです(予防線)。転生で唯一好きなのは「幼女戦記」と「無職転生」(2作挙げているのが爆笑ポイント)ですがカクヨム作品ではありませんからここには書きません。そういうやつでオススメあったら教えてください。

 

・キャスカル(大澤めぐみ)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054883068777

六度の大戦を経て、航空機が飛躍的な進化を遂げた世界。そこではドッグファイトを中心に戦争が行われています。激化する戦争の中、「キャスカル」と呼ばれる対G性能やら空間把握能力やらに優れた女の子たちがパイロットとして挑発され、空へ上がるというお話です。はっきり言って軍記物としては微妙。しかし人間ドラマの描写は非常に繊細で、心を打つものがあります。少女たちの葛藤を戦争の中で描き出す、というのがメインでありましょうから、手に汗握るドッグファイト描写を期待して読むのは間違いなのでしょう。実際に読めばそれが間違いであることは否応にもわからされますが。

この大澤めぐみさんは他にも多くの作品を投稿されておりまして、特に女子高生を主人公とした一人称小説を得意とされるようです。なろうで言えば「JKハル」に近いと言えるかもしれません。「ジェシカエンジン」「おにぎりスタッバー」なんかが面白かったですし、ぼくは「中年おじさんの作り方」や「いきなりラスダン!?」がお気に入りです。独特の文体が人を選ぶかもしれませんが、ぜひ一度読んでみてはいかがでしょうか。

 

・The video game with no name(赤野工作) 

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880928816

時は2115年、死を間近に控えたゲームオタクが綴るブログという体裁の、一風変わった作品です。レトロゲームと言っても現代(2010年代ね)のゲームはもはや学問の領域であり、2040年以降、我々からすれば未来の、彼からすれば若かりし頃の思い出たるゲームをレビューするわけですね。様々な失敗作が掘り出され、その背景を紐解いていくわけですが、「本当にできるかもしれない」と思わせるものもあり、実際に起こりそうな事例もあり、で唸るばかりです。オチの付け方も秀逸で、カクヨムのシステムにすぎない「連載中」の文字さえも作品の一環なのではないかと思わせる、圧巻の作品であります。well played.

 

・放課後のスープ(長月マシ)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054882848340

童貞野郎(暴言)とドS女王様が織り成す謎解きミステリ…の体をなしてはいますがまあこれは恋愛小説でしょう(褒めてます)。

「海亀のスープ」で遊びながら、退屈な業務をこなすふたり。(海亀のスープ自体がわからない人はぐーぐるで検索してください) だんだん進展する二人の甘酸っぱい恋愛に悶えること間違いなしです。

これを書いてる時に気づきましたが、この「掛け合いを楽しむ」という感覚は「狼と香辛料」に近いかもしれません。好きになるわけです。レトリックと言葉遊びを駆使した会話、知的でいいですね。

 

・魔王さま、勇者に婿入りなさるのですか!?(@nana777)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880773436

元田舎娘の元勇者、現田舎娘が豚の世話をしながら魔王と暮らすのんびりラブコメです。どんくさ…おっとりした勇者の一人称で進みますから、緊迫した状況でもなんとも気の抜けたふうにすすんでゆきます。先の大澤めぐみさんの言葉を借りれば、「空気感というのは直接に書いてみせてもダメでふんわりと立ち昇ってくる類のものだからディティールにこそ宿る」わけでありまして、その点で言えばこの作品は特に牧歌的といいますかとにかく肩肘張らずに読めるもので、読み終わったあとはあったけぇ……ってなりますね。オススメです。

 

スーパーカブ(トネ コーケン)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880317669

カブ乗りてえ以外の感情を失った。

FGO7章 絶対魔獣戦線メソポタミア

実装から20時間弱でクリアしました。f:id:impoman1more:20161211213123p:plain

雑感をつらつらと。ネタバレ全開だからまだの人は右上の×ボタンでも押しておいてくれ。

竹箒の通り王道でしたね。魔獣やっつけたぜ!→実は裏ボスがいたぜ!みたいな。ラフムのグロさで吐きそうでした。完全に見た目BETAだし無辜の市民は取り込まれるしでもうね……あのシドゥリさんまでラフムになっちゃったっていうのが最高につらい。しかもあの姿になっても自我を保ってるっていうのがね、もう涙なしにはって。

今回メインヒロイン力高いなって思ったのはケツァルコアトルさん。力尽きたあとにぐだ子の顔思い浮かべて立ち上がるとかやばいでしょ……激アツかよ……ってTwitterで実況しながら攻略していた。ガチャからは出ないけどな!

もうちょっと敵は強くてもよかったかなって思います。ギフトある分敵の強さは断然6章のがきついなー 7章はボスよりラフムの方がきついぐらいの有様だったし。ラストのラッシュもバフ盛り盛りだから耐久面の余裕が出すぎて作業だったのが盛り上がりに欠けた感。面白かったけどね。

以上雑感でした。

某ネトゲでの崩壊録 終

けして甘く見ていたわけではない。だが、ここまでは彼女の抱える闇のほんの序章にすぎないのだということを、私は露も知らずにいたのだ。

きっかけはSkypeで繋がっている数人でのオフ会だったようだ。伝聞調なのは、私自身はそこに参加していないからである。彼女に靡かなかった人間を除いてSkypeでの派閥を形成したマンコは、おそらくこの頃から股を開き始めていたはずだ。一人また一人と蜘蛛の網に絡め取られていくギルドメンバーたち。その糸に仕込まれた毒が全身に回り、我々はついにその咎を受けることになる。

 

マンコが共有倉庫のアイテムを全て持ち逃げし、ギルドを解散したのだ。

 

後から聞いた話によれば、彼らが穴兄弟となったことが発覚した瞬間に嫉妬や憎悪やその他諸々の醜い感情を爆発させた男どもが争いあい、生理中で気分の優れなかったマンコは耳を塞ぐようにギルドを解散したらしい。意味わかんねえ。

とにかくその時私に起きた出来事は、「ログインしたらギルドがなくなっていた」の1点のみであった。

 

かくして私が青春を捧げて育てたギルドは塵と化し、メンバーは散り散りになった。せめて最期を見たかった、というのが正直な感想ではあるが、口惜しく思う気持ちでいっぱいである。

そしてそのゲームが今年の末にサービス終了することを知った。世の流れとは非常なものである。

諸兄におかれては、

1.男性向けコンテンツのコミュニティにマンコを軽率に入れないこと

2.貢ぎを始めるチンポがいればすぐに注意、最悪脱退させること

この2点には十分留意した上で、楽しいオンライン生活を送っていただきたい所存である。

願わくはこの経験が、誰かのコミュニティを守らんことを。