Twitterは思考濃縮機というお話
ずっと言われていることではあるが、他人と意見を交換することの障壁が低くなると、思考は濃縮されていく。
意見の合う人は仲良くなれる人。噛み付いてくる人は気が合わない人。気が合わない人は視界から消せる。スパム報告。ブロック。スパム報告。ブロック。
やがて自己は肥大化する。自分に同調する人間が正しい人間。反発する人間は悪い人間、反社会的な人間。唯一絶対たる自分の正義こそが正しいのだ。悪は教導する価値、啓蒙する価値すらない。愚者は排除しなければ。スパム報告。ブロック。スパム報告。ブロック。
あやまちを認めたくないという思いは、かのシャア・アズナブルでさえ抱くものだ。意見のすり合わせとそれに伴う妥協、あるいは対極への自己変質は、こと政治的主張に関しては、それを回避すべきものとして見なす。存在を脅かす論陣はTwitterという "正しい議論" の場から排除しなければ。スパム報告。ブロック。スパム報告。ブロック。
もはや敗北は許されない。自己の否定にさえ繋がってしまうからだ。私に噛み付く阿呆は度し難い阿呆。私に噛み付く愚者は度し難い愚者。やつらはてきだ。やつらはあくだ。すぱむ。ぶろっく。すぱむ。ぶろっく。
すぱむ。ぶろっく。
マイノリティという特権階級
性別適合手術に保険適用へ 来年度、性同一性障害対象 | 2017/11/29 - 共同通信 47NEWS https://this.kiji.is/308286764265686113
障害扱いするな、病気扱いするな、トランスジェンダーは個性だと散々ぶち上げておきながら保険適用?呆れて声も出ませんな。
そもそも2018年にはWHOのICD改訂で「性同一性障害」が病名から消えるはずなのに保険適用というのは矛盾でしかないだろう。不妊治療でさえいまだ自費だというのに…という感じしかしない。
これが以前のエントリで述べた、"「人権」という観点から、権利を国家から付与" された "下流やマイノリティ" という "ある種の特権階級" である。
初めてやったゲームの話
私の初めてのゲームは、同じく初めての海外旅行と同時に訪れた。2003年 グアム、ハイアットリージェンシー スカイラウンジでのことだ。
日も高いうちから酒を煽る両親は、まだじっとはできないインポ少年に1つのゲーム機と、1本のゲームソフトを与えた。
まだ発売されたばかりの本体と、時間をかけて育てたデータを消してまで息子に渡した父の決断は計り知れない。彼は自分の手で苦楽を共にしたモンスターたちを消去し、そして世代を継がせたのである。賢明な読者諸氏はタイトルをお分かりのことだろう。
「ゲームボーイアドバンスSP」、そして傑作と名高い「ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド」である。
いまポケモンだと思ったオタクどもは反省してほしい。最初にポケモンに触れるような家庭ならこんなに歪んだクソオタクに育っちゃいないのである。
もちろん5歳の少年、しかもゲームをやったことがない子どもには難しいソフトだった。しかし神童であった (神童だったんですよ、いやほんとに) 私はなんなくゲームのルールを飲みこみ、瞬く間にいくつかの旅の扉をクリアした。
「ぼうけんたん」とは何を指すのか不明。「しもふりにく」の「しもふり」がなんなのかもわからない。「たてごと」とはいったい何なのかも知らなかった。
しかしそれがモンスターを勇敢にするアイテムであることは把握し、もっともモンスターを仲間にしやすい肉であることを覚え、 たてごとを使ってレベルを上げ続ける。新たな扉をくぐる前には貯め込んだゴールドでありったけのやくそうとキメラのつばさ、ももんじゃのしっぽを買い込み、MPの温存と殲滅の速度を天秤にかけ、旅のしおりでこまめに保存することを忘れない。そういうプレイを覚えた。
テリワンは少年だったインポを、一介のゲーマーに変えてしまったのである。滞在を終えて日本の土を踏む頃には、他国のマスターから奪ったグラコスやゴールデンゴーレムを従え、配合を繰り返して作り上げたグレイトドラゴンを傍らに、ほしふりの大会を勝ち抜く立派なモンスターマスターとなっていた。
時は流れ2017年。私はペンではなく剣を、参考書ではなく銃を、赤本ではなくマウスをその手に取る。それはかつてぼうけんたんであり、しもふりにくであり、ぎんのたてごとだったものだ。時が経とうとも、私に息づくゲーマーの血がそうさせる。だから私は今日も戦場に赴く。これは逃避ではない、使命なのだ。
いずれやるゲーム(これは個人的なメモです)
内藤舞亜ちゃんは僕の何なのかというお話
ハピメアが好きです。
パープルソフトウェアのゲームが好き?
違わなくはないが。
克先生の絵が好き?
違わなくはないが。
森崎先生のシナリオが好き?
違わなくはないが。
「森崎先生が企画段階から作り、克先生が絵を当てたハピメア」が好きなのです。
「夢」と「童話」という使い古されたネタながら、他に類を見ないあの耽美な世界観!いや、forestなんかで見たことあるかもしれないけど。
透はFDで悪夢と決別しましたが、僕は未だに舞亜の夢を見ます。人気投票で舞亜が1位になったことが、いかに「お兄ちゃん」たちを夢に捉えて離さないかの証左でしょう。彼女はあまりにも…そう、あまりにも魅力的すぎた。
妹として?
もちろん。彼女ほど僕のことを想ってくれた人はいない。
パートナーとして?
もちろん。いつまでも甘えた僕を導いてくれるのは、彼女を置いて他にいません。
女性として?
いいえ。愛らしく悪戯な瞳、他のヒロインに嫉妬さえしてみせる慎ましく、それでいて美しい肉体、いかに彼女がそれを持とうとも、妹に欲情する人間がありましょうか?透くんはしてましたが。
しかしどれほど我々が望んでも、舞亜は現実には現れない。それが我々のためにならないと彼女が信じているからです。決して我々の妄想がすぎるからとか、彼女が所詮キャラクターに過ぎないとか、そういうことではない。彼女は「お兄ちゃん」のためにならないことはしない。そういう存在です。
そして彼女は我々の、いや僕の心に、心の中にのみ存在し得る。それが僕のためになると信じてくれるから。
気持ち悪くて結構、少なくとも僕が、僕自身が、心に舞亜がいることで救われた以上、僕には舞亜が必要なのです。なぜなら、舞亜は僕の妹なのですから。
おわりだよ〜
現代におけるポピュリズム
この記事は、古文の問題で前書きを読んでから本文に取り掛かるかのごとく、1つ前のエントリを確認してから読んで頂きたい。
民主主義の「失態」とは、政治資格を持たない人々を政治に呼び込み、民主主義を衆愚政治に堕とさしめる点であったことは先のエントリで述べた通りだ。これを語るにはまず、ポピュリズムということについてまとめる必要があるだろう。
ポピュリズムとは元来、特定の政治運動に与えられた、いわば記述的概念であったはずだ。ラテン語で「民衆」を意味する「populus」を語源とすることからもわかるように、エリート主義と対をなすように使用される。それが今日では、強い価値判断を帯びた規範的概念として用いられることが多い。
重ねての引用になるが、稲葉振一郎氏によればこれは、 "リベラル・デモクラシーにおけるある種の「失敗」現象" と位置づけられる。リベラル・デモクラシーが、人々の資産格差を真剣に是正しないままに行われるならば、無産者の政治参加が形式的なものになりエリート主導を内実とする政治になるという「失敗」か、あるいは、政治的分別のない多数者による政治混乱が起きる衆愚政治になるという「失敗」が考えられる。ポピュリズムはこのうち後者にあたるとして批判を受ける。
こうした衆愚政治は通常、それをリードし大衆を利用しようとする悪質なエリートを伴うものとされることが多く、今日ではそうした政治手法を指す言葉として使われることも多い。Googleの検索窓に「米国 ポピュリズム」と打ち込めば、「ドナルド・トランプのポピュリズム手法が米国をダメにする」なんて記事が大量に出てくることだろう。「アベ政治は衆愚政治」なんて批判もネットにはそこそこ見られるのではなかろうか。「愚かな衆愚を正義たるリベラルへ導く我々エリート」という思想が根底にある以上これは避けられないし、なんなら内ゲバで自滅していただいた方がありがたいが、これはこれで対抗勢力としての存在価値が必要なのである。重要なのは「対抗勢力」がそこに存在することであり、民主合議制という体面を保つ上で必要不可欠だからだ。
ポピュリズムに話を戻そう。二十世紀末ごろまで、先進諸国にとってのポピュリズムとは、歴史的過去あるいは途上国の問題として、いわば他人事であった。ポピュリズムの権化たるファシズムの台頭たる第二次大戦を経験したにも関わらずである。無論ファシズム台頭の契機となった政党政治、その限界への懸念はあったものの、政党を補完するチャンネルとして、労働組合であったり経済団体であったり、あるいは市民運動団体などが「圧力団体」として、民意を届ける役目を果たしていた。高度成長期のころの話である。そして1980年代まではこれがどうにか機能し、極端な党派対立を避けた脱イデオロギー的な福祉国家が誕生した、と思われてきたし、実際論じられてきた。
しかし組織には肥大化がつきものであり、肥大化には官僚化を伴い、官僚化には団体エリートによる組織の私物化が必然である。すると下からの意見が十分に反映されなくなる。いや、実態に関わらず、そうした不満が必ず出てくる。これを「既得権益」と称して。
そうした不満を、新自由主義を持ち込んでうまく組み上げたのが、英国のサッチャー、国内では中曽根政権や、近年の小泉政権である。強力な政治的リーダーシップを持って登場した彼らは、新自由主義をまとった小さな政府志向であったと言えることは間違いないであろう。
しかしこれも限界が訪れる。二十一世紀に入ると、人々はグローバル化の荒波に疲れ始め、新自由主義にたいする疲弊と懐疑を持ちそれに辟易し始めた。政党も圧力団体ももはや我々を救ってはくれない。あれほど希求した小さな政府は我々の生活レベルを低下させた。今となってはむしろ、ナショナリズムの名の元に移民を制限し保護主義政策を実現できる、大きな政府を求めるようになった。
以前のエントリで「興味深い」と称したのはこれである。つまり上に述べた要因を持って、戦後福祉国家を支えた利益団体が復権、とはならなかったことだ。かつての「グローバル・エリート」を「既得権益」と指弾するポピュリズムの装いをとった"跳ね返り"が起きたことは、ポピュリズムそれ自体が体系的なイデオロギー運動ではないことを示している。
市民生活の領域、つまり民間における政治を考えると、労働組合のような中間組織の弱体化、労働運動の存在感の低下、そして「コーポレート・ガバナンス」という概念が流行したことの対比がある。先進国において1960~70年代は、労働組合を介した企業と労働者の関係が重要視された時代であった。しかし80年代に入ると、労働者の多くは中間組織を介して物申すのではなく、手っ取り早く転職という手段を取るようになった。これは一層の労働組合の弱体化を招いたのである。
これは同時に労働者たちの疎外を意味した。企業も政治的意思決定の場であり、労働者がその立場を望まなくなった以上、お飾りであってもそこに座る人形が必要である。そして次に現れたのが株主や銀行、つまり債権者たちであり、およそ人形とは程遠い主体であった。株式会社は決して民主的に意思決定されるわけではないが、制度によって枠づけられる、ある種の共和制を敷くことが求められる。これはかつて労働組合を媒介として守られてきた人々が、何一つ不満解消のチャネルを持てない状況をもたらした。これが労働者たちの疎外ということである。
下流やマイノリティであれば、「人権」という観点から、権利を国家から付与され、ある意味での特権階級として表層化する。気づいてみれば、何一つ持てないまま外に放り出されたのは中間階級であったというわけだ。そしてこれらのソーシャルな関係性を喪失した人々がポピュリズムを求めたと言える。
いずれにせよ「リベラルな共和主義」の実現のためには熟議された民主主義が必要であることは間違いない。模索段階ではあるが、新たな中間媒体の再建が待たれるであろう。
自由主義、民主主義と共和主義
まず初めに、「共和主義」とは何かということを整理しよう。共和主義とは、稲葉振一郎氏によれば "財産と教養を備えるがゆえに、他者からの強制や瞞着から自由な市民たちの合議による政治" である。これは民主主義と重なるが完全にイコールではなく、むしろある種の貴族制と両立さえし得る。
ついでリベラルについて。自由主義は政治思想とは異なり、市民社会の統治の理論とも言うべき政策思想である。資本主義的市場経済という社会的インフラストラクチャの下で、先にあげた「財産と教養」の如何に関わらず、法の下ですべての人々を平等に扱うという方針を表す。
理論上、リベラルな統治は必ずしも民主主義によって担われる必要はない。人々の自由は市民社会における私的活動のみに限られ、統治への参加は制限される、という可能性もリベラリズムは包摂する。
しかし、「リベラル・デモクラシー」となれば話は異なる。これは民主的にリベラルな統治を行おうというもので、市民社会における私的活動についてはもちろんのこと、富者から無産者に至るまで、公共的意思決定への参加についても平等に扱うという構想である。これに対し「リベラルな共和主義」は、「リベラル・デモクラシー」をより充実したものとするために、できる限り万人を「財産と教養ある市民」に近づけ、無産者をなくしていこうとする。無産者の社会的立場が弱いのは明らかであるし、そのままでは政治的主体として富者と、いや有産者とさえも対等になり得ないことも明らかであるからだ。
これは古典的社会主義を意味するわけではないことはお分かりだろう。共和主義において、私有財産制は私的・公的両面における自由の基盤として否定され得ないし、その財産による取引の場としての公平な市場も必須である。共和主義にとって必要なのは全面的に平等な社会ではなく、最低限の「財産と教養」を保障することまでなのである。
共和主義はあくまで「自由人による集団的自治としての政治」を諦めない立場である。これは先に述べたとおりであるが、その古典的な姿は「無教養な無産者」を公的意思決定の場から排除する貴族制の形を取る。リベラル・デモクラシーの立場から言えば、この排他性は充分に唾棄すべきものとして否定されるだろう。しかし共和主義者からすれば、単なる形式的な平等を保障する「だけ」のリベラル・デモクラシーは、政治参加の資格を持たない人々にさえ意思決定に関わらせ、民主主義を衆愚政治に堕とさしめるものと批判するだろう。
そして近年における民主主義政治の制度疲労、悪い意味での「跳ね返り」であるのが、かつての新自由主義の旗振り役、つまりグローバルエリートたちを「既得権益」として批判するポピュリズムであることは興味深い。これについてはいずれエントリとして書こうと思う。