自由主義、民主主義と共和主義

 まず初めに、「共和主義」とは何かということを整理しよう。共和主義とは、稲葉振一郎氏によれば "財産と教養を備えるがゆえに、他者からの強制や瞞着から自由な市民たちの合議による政治" である。これは民主主義と重なるが完全にイコールではなく、むしろある種の貴族制と両立さえし得る。

 ついでリベラルについて。自由主義は政治思想とは異なり、市民社会の統治の理論とも言うべき政策思想である。資本主義的市場経済という社会的インフラストラクチャの下で、先にあげた「財産と教養」の如何に関わらず、法の下ですべての人々を平等に扱うという方針を表す。

 理論上、リベラルな統治は必ずしも民主主義によって担われる必要はない。人々の自由は市民社会における私的活動のみに限られ、統治への参加は制限される、という可能性もリベラリズムは包摂する。

 しかし、「リベラル・デモクラシー」となれば話は異なる。これは民主的にリベラルな統治を行おうというもので、市民社会における私的活動についてはもちろんのこと、富者から無産者に至るまで、公共的意思決定への参加についても平等に扱うという構想である。これに対し「リベラルな共和主義」は、「リベラル・デモクラシー」をより充実したものとするために、できる限り万人を「財産と教養ある市民」に近づけ、無産者をなくしていこうとする。無産者の社会的立場が弱いのは明らかであるし、そのままでは政治的主体として富者と、いや有産者とさえも対等になり得ないことも明らかであるからだ。

 これは古典的社会主義を意味するわけではないことはお分かりだろう。共和主義において、私有財産制は私的・公的両面における自由の基盤として否定され得ないし、その財産による取引の場としての公平な市場も必須である。共和主義にとって必要なのは全面的に平等な社会ではなく、最低限の「財産と教養」を保障することまでなのである。

 共和主義はあくまで「自由人による集団的自治としての政治」を諦めない立場である。これは先に述べたとおりであるが、その古典的な姿は「無教養な無産者」を公的意思決定の場から排除する貴族制の形を取る。リベラル・デモクラシーの立場から言えば、この排他性は充分に唾棄すべきものとして否定されるだろう。しかし共和主義者からすれば、単なる形式的な平等を保障する「だけ」のリベラル・デモクラシーは、政治参加の資格を持たない人々にさえ意思決定に関わらせ、民主主義を衆愚政治に堕とさしめるものと批判するだろう。

 

そして近年における民主主義政治の制度疲労、悪い意味での「跳ね返り」であるのが、かつての新自由主義の旗振り役、つまりグローバルエリートたちを「既得権益」として批判するポピュリズムであることは興味深い。これについてはいずれエントリとして書こうと思う。